打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか? 感想

2017年公開のシャフトのアニメ映画について。
その基本的な紹介は他のサイトで十分でしょうから書きません。

”もしも玉”というものが時系列的に一番最初に確認されたのは、なずなの、死んだ父が海で手で持っていたところだったと思うんです。
取り敢えず1回観ただけなんだけど、この”もしも玉”とは何だったのか、というのが掴めない。メタファー的な意味でね。
それがあると、最後の方の、歪んだ、されど理想的なあの空間と、その崩壊・消失に意味を持たせられる気がするんだけれど。
頭良い人に何かしら、良い感じのをこじつけて貰いたいところだ。皮肉じゃないよ。
より良い解釈を示して欲しいという、頭の良い他人の頭で感動したいという、楽したいという気持ちです。いちから解釈するには、少々難解な部分の多い作品だからね。

岩井俊二が脚本の会議段階で提案した”もしも玉”というアイデアは、元々のオムニバステレビドラマにおいて前提とされた『If もしも』という、物語の基礎の説明という役割を担わせるという目的があったようだ。
パンフレット内での、この”もしも玉”に冠しての言及といえば
『いろんな人たちの”もしも”っていう思いが凝縮された何かなんだろうっていうところに固まっていって、玉ということで花火と対極としてひとつのシンボルにもなる...』
というものと、他には劇中のあらゆるキーワードの紹介をしているページ。
私としては、最終的に2人が行き着いた閉鎖されている感のある例の歪んだ世界では、まるで”もしも玉”の中にいるかのようではなかったか?と思ってたんですけど、その【キーワード集】を読むと、制作側もやはり、なずなと典道の行き着いた歪んだ空間のデザインは、”もしも玉”の中に居るようなイメージでコンテを描いたとのことだ。
ただ、『(そうすると)きれいかなと思って、...』という、文脈なんですけど。
花火と対極的な玉の形をもって、”もしも”という思いが凝縮された、”もしも玉”。
なずなの父は、生前使っていたのかな。
それとも、父の思念的なものが生んだのかな。
劇中、これに関してヒントはあったのだろうか。
ここまで書いておいてなんだけど、1回観て分かるほど私は頭よくないよ?


ところで、あの歪んだ空間は、まるで”もしも玉”の中であるかのようだったけど、あの町を囲うドーム状の歪んだ壁は、典道の空想・妄想の限界なのではなかろうか。
言い換えれば、典道の”もしも”の限界だったのではなかろうか。
町の外の事を、子供の彼らはまだ何も知らないからね。
そういうふうに意味付けるとどうだろう。
出来事の順番を忘れたけど、どこかのタイミングでドーム状の歪んだ壁は消失した。
彼は、周りより一歩先に大人に近づいたという事かな?
だから最後のシーン、クラスに典道は居なかったのかもしれない。

打ち上がった”もしも玉”が花火のように破裂して、その欠片に、選択によってはあり得た”もしも”の世界が映り込む。
その一欠片を手にした事で生じるのは何だったか。
海の中での一連の出来事の意味は?
今作品の最初のほうのシーンで、なずなが玉を拾ったのと、歪んだ空間内のラストとが同じ場所であることは何を意味するか。
あの脱ぎ捨てた服だって、思い返すと最初のほうに伏線があった気がするぞ?
いやぁ、うろ覚えだ!1回観て語れるようなものではないわ!

グダグダと書きましたが、この作品について簡単な感想としては、
シャフトには向かない題材ではないか、という事。
これは正直観る前から思っていた。
だからある程度、滑る覚悟はしていたりもした。
実際、賞賛するようなものでは、たしかに無かったと思う。
話が難しい以前に、例えば不自然なCG。冒頭の自転車等の動きなんか気になってしまった。
元の作品の人気、アニメとしての粗もところどころ見えてたし、また、分かりやすい感動!の物語を求めていた、脳の動かない人の多さも、大衆に向けた広告があっては仕方なく。
批判の多さも妥当かと思う。
でもね、ネット上のこの作品に対する批判はどうも(この作品に限らないけど)誠実でないものが多い。
後半の展開が原作と違うという点がお気に召さず、ただ叩きたいだけの価値のない批判をしてるブログが、少なくとも今、私がこの文を書いている時は検索上位にあったりして、嘆かわしい限り。

”聲の形” 感想

繰り返し2回観た。山田尚子監督作品なんで、2周目は演出に注視しつつ。あと何回か観たいところだ。
追記:計4回くらい観た。

西宮の心情は彼女の周りにも、こちら側にも伝わりにくいけど、石田と同じく、とにかく自己否定が過ぎるという事を、改めて意識的に前提として観ると、各場面で読み取れるものも増えたり変わったりするね。
これはいろんな場面でそうだけど、個人的には、石田が共に遊園地に行った人達それぞれに”ヒドいこと”を言って、みんなが去ったあとの西宮の表情とその気持ちが特に。
西宮に、みんなが言ってる事、言われている事が聞こえてるかどうかは知らないけど、いずれにせよ石田から友人が離れていった、この状況は理解出来ているでしょう。
(追記:聞こえてないだろうね。橋の上での会話が始まった直後くらいの遠い場所からのカットで、西宮は結絃に、手話で、指降って状況の説明をとお願いしてるよね。結絃は目を逸らす。)
石田は全部自分が悪いと言うが、このとき西宮もまた、この状況になったのは自分のせいだと思ってしまうんだね。
石田も西宮も基本的に、他人を責めない、というか責められなくなるくらい自分が嫌いで、自分のせいにする。
1周目なんか、みんなが去ったあとの西宮の向ける目を見て、石田のことを少し攻撃的な目で見てんのかと思ったけど違うよね。
なんで勘違いしたんだろうと考えると、もしかしたらこれは石田の感情かも分からないね。ここの感想は、3周目には変わってるかもしれないし確信的になるかもしれないし、微妙なところ。でも西宮の表情を見て、何かしら思ったはず。
追記:別に攻撃的な目線だと思ったって事はないのでは。

もう一つ、他の場面の話。
今作の最後の、植野の西宮に対する”バカ”という手話が”ハカ”になってしまっていて〜、というのは有名な話だろうけども、確かに西宮の仕草はそれを教えようとしてるな〜と2周目で思った。
1周目なんかそんなん分からなかったけど、言われてみればそうだ。
西宮が伝えようとしている事を、私はキチンと受け止められてなかったわけで、これが作品のテーマであるコミュニケーションの難しさというものだろうと思われた。
この作品において西宮の心情や言いたい事を理解するのは難しく、しかし、だからこそリアルだ、というのは受け売りだけども、確かに。

植野について、まぁ別に嫌いだなぁと思ったなら嫌いでもいいけど、この作品において、それだけでは済まない重要人物だね。って思うんだけどうまく書けないなぁ。
例えば観覧車の中での会話なんかは、西宮が、『自分の事が嫌い』と言って、それで全て自己完結してしまって、植野の言いたい事が、耳の聞こえる聞こえないという問題でなく、伝わらない。
今作品において、重要なシーンじゃないかと思うんだよな。
そこに至るまでに西宮の持つ障害はおおいに関係してるだろうけど、ここ観覧車内ですれ違ってしまっている理由は彼女の持つ障害そのものでない。
ここにあるのはもっと人間の内的な部分の問題であって、またコミュニケーションの難しさなんだろう。
他のシーンでも語る事の多いキャラだと思うけどここでは上の例で終える。
自分の中で彼女についてまだ考えが纏まってない感もあるからね。
あと、植野って石田に好意持ってる?それは今も続いてる?微妙なところだ。
石田の自転車の後ろに突然乗ってきた植野。大きい道路を挟んで反対側に西宮を見つけて、その後の彼女の一連の行い。
どう見たって嫌な奴だけど、山田尚子監督の演出を手掛かりにその心情を読み取る必要があろうと思う。ここらへんは、3周目、4周目だなぁ。
個人的に、”たまこまーけっと”の、みどちゃんを思い出させるキャラだなと思う。声優が同じだったりするけども。
追記:この記事の最後に載せているインタビューを読んだんだけども、やはり好きなんだね。そう思うとやはり切ない人だよなぁ。まるでみどちゃんの様だという感想は、外れてないな。
植田の想いが通じる事はもう無いんだろうな。西宮さんとは今後、良き友になれるのかもしれない。
かつての石田と結絃の関係と、西宮と植田の関係は似ている、というのはどこかのブログで読んだことである。

作中で嫌いになるなら川井さんでねえの?と思いもした。しかし、多くの人が気付いただろう、彼女の態度こそ極一般的なものであるわけだ。
きっと小学生石田の言う通り、彼女も陰で悪口みたいな事を言っていたんだろう。でも川井さんの『私はそんなこと言ってない』も本当なんだろう。
イジメを見ても注意はしないし直接関わらない。表面上優しい。
それでも、無自覚の精神的暴力をふるい、そして差別している。私だって、正直な話、西宮の第一声にギョッとした。
その時感じた異物感こそ、イジメの種である事はお分かりでしょう。
追記:生き方の上手い人だよな、石田とか西宮とか、植野と比べて。

2周目が終わった時点で残った疑問は、西宮が自殺を決めたのはどのタイミングだったろうということだ。見逃してしまっているようである。
西宮母の誕生日以前のどこか?
花火大会での別れのときの西宮の手話が、『ありがとう』だったのが印象的だ。
追記:ばあちゃんが死ぬ前のシーンで、結絃は夢を見るよね。寝てるばあちゃんに引っ付いてる結絃が見た夢の中で、小学生時代?の西宮は苦しそうな顔で、結絃に対して何か手話をする。あれは、『死にたい』と言ってるんだね。気付いてみると、確かに劇中でこの手話に関して説明はあるんだね。具体的には、西宮が自殺を測ったシーンよりも後、結絃が部屋の写真を剥がしているシーン。
自殺を決意したタイミングを直接示すわけではないけど、この夢は西宮の心情を示唆してはいるよね。
西宮はこう思ったんだ。劇中でも西宮が言ってるとおりだけど、自分と居ることで石田は不幸になると。自分が石田と居ることで、石田は彼の周りの人間から拒絶されてしまうのだと。
西宮が見える範囲にいると、石田は、加害者として扱われてしまうからね。
そういう意味で、西宮は自身がいなくなれば、と考えてしまう。
西宮は、石田に連れられてデートしていたとき、どういう気持ちだったろう。
そういう事を考えながら本編を観ていると、やはり、花火大会の夜、病院での出来事、それぞれのシーンが、よりこちら側の心にくる。

蛇足ではあるけれども、これもまた強く印象に残っているので書いておく。
結絃は可愛いかったね最高に。
初めて制服姿を見たとき、いや、その場面での事情を考えれば、少し不謹慎ではあるんだけども、いやぁ、
あぁあぁあぁ〜〜〜〜〜〜って、なったんだ。
追記:西宮の妹だと発覚する直前くらいのシーン、石田が結絃に西宮の耳の件で拒絶されたとき、いつも人の顔にバツつけるのと同じように傘で結絃の顔が見えないように遮ったでしょ。
結絃がこの後、石田の言葉を受けて結絃のほうから傘を持ち上げて視線を合わせるわけだ。この一連のシーンは物語上においても重要なシーンだろうけど、それ以上に、持ち上げてこちらを覗き込む結絃の可愛さったらないでしょ。なかろうもん。

追記:バッハの練習曲インベンションが、映画最後の文化祭に入るシーンまでの各場面で少しずつ弾かれているらしい。"練習曲"であることがキモ。
インベンションもう少し聴き込んでから観ると、もう少しここらへんが体感できるかもな。

メモ:『聲の形』音楽・牛尾憲輔インタビュー
http://a.excite.co.jp/News/bit/20161008/E1475063249559.html

BGMの曲が特徴的な映画だったけども、作品のコンセプトに沿った作りなんだなぁ
メモ:牛尾憲輔インタビュー 山田尚子監督とのセッションが形づくる音楽
https://www.google.co.jp/amp/s/s.animeanime.jp/article/2016/09/16/30521_2.amp.html

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伊藤真澄『Wonder Wonderful』

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「最近、音楽を聴く際にはもっぱらAppleMusicを使っていて、すっかりCDを買うことがなくなった~!」となれば、いち消費者としちゃ最高だ。聴きたいと思った作品が漏れなくその中で聴けるならばそれに越したことはない!
けどそうもいかないのが現実であります。
サブスクリプション音楽配信サービスでは聴けない、みぞおちワクワクな作品なんかいくらでもあるわけで....。

最近買ったアルバムの中ではなかなか、みぞおちワクワク度の高い作品だった。
随分と前のこと。「人類は衰退しました」のEDに使われた『ユメのなかノわたしのユメ』を聴いたときのみぞおちのワクワクっぷりといったらもう!
アルバム買おうかな〜とそこそこ長い間恋心を募らせ、遂に購入に至ったわけです。
楽曲自体はドリーミーで、全体的にストリングスで装飾されたもの。ドリーミーってのは、このVoの持つ特性でもあるのだろうし、コード選びや、この複雑かつ大胆な楽曲展開に起因するんだろうね。安直な物言いをしてしまうと、プログレポップ?(笑)
Acoustic&Electeic Guitarの演奏者としてオオニシユウスケ氏の名がクレジットされてるけれども、彼のギターが効いてるなぁ、なんて思ったり。

『ねむねむ天使』なんかWeeny wish!のフレーズがキャッチで、4つ打ちでリズム的にも分かりやすい、今作随一のポップ具合だけど、ふわふわ巡る電子音がやはり、『Wonder Wonderful』の1曲って感じ。
他の楽曲も、『ユメのなかノわたしのユメ』ほどの目まぐるしさはないけども、その世界観はキチンと共有していてアルバムとしてなかなかのもの。
複雑な構成、されどそれを感じさせないメロディ、その世界観に一度囚われれば最後まで浸れる傑作であります。